子育てコラム

子育てを前向きにたのしくする知恵や工夫をお伝えします。
給食の時間のときのことでした。食堂に子ども達が6人ずつ座って食べていました。わたしは、欠席の子どもの席で食べることにしていました。その日のテーブルでは、いつもいちばん食べるのが遅くなるK子ちゃん(5歳)がいました。わたしは、K子ちゃんが食べ終わるまで一緒にいました。

「K子ちゃんのおかあさんって、きれいでかわいくていいわね」と話しかけました。K子ちゃんの家は、両親と兄の4人家族で、どこから見ても健全な家庭環境で、特におかあさんは、美人でしかもとてもやさしく話される人でした。K子ちゃんは、わたしが話したとたんに「でも、おかあさん、おにいちゃんしばくで」と言いました。

K子ちゃんも、おかあさんに似て可愛くて、クラスの男の子の「お嫁さんにしたい女の子ナンバーワン」でした。わたしが「しばくって?」と聞きなおすと、「おにいちゃんな、宿題せんかったりしたらな・・・」と得意げに話し出したのですが、急にハッと気づいたように話を止めて、下を向いてしまいました。その顔には明らかに困惑の表情が見えました。「その話、秘密のことだったのね。先生、おかあさんにも誰にも絶対言わないね」と言うと、K子ちゃんはとてもうれしそうにうなずきました。

その日の夕方、おかあさんが迎えに来られた時、K子ちゃんは、不安げな様子でしたので、「わたしね、今日、K子ちゃんと秘密の話をしたんです」と言いました。おかあさんは、「え、先生、何なに」とにこにこ笑いながら何べんも聞きましたが、わたしとK子ちゃんは絶対に口を割りませんでした。

次の日の朝、おかあさんが「先生、K子、なに言ったんですか。いくら聞いても教えてくれないんです」と、会うなり聞いてこられました。「それは、秘密、ね」とK子ちゃんに言うと、にこっと笑っておかあさんを見上げました。おかあさんも笑いながら仕事に行かれました。それから先、そのことに触れることはありませんでした。K子ちゃんも、もう高学年になったかと思いますが、そんなこと忘れてしまっているかもしれませんね。

わたしは、こういうことがある度に、子どもというものが、自分と周囲の人との人間関係に非常に敏感で、自分や自分の家族が置かれている状況を客観的によく理解していることを思い知らされるのでした。

K子ちゃんは、お兄ちゃんがおかあさんに「しばかれている」様子をどんな気持ちでいつも見ていたのでしょうか。その「しばき」と外で見せるおかあさんとのギャップをどんな風に受け止めていたのでしょうね。そのギャップをしっかり見つめているからこそ、K子ちゃんなりにこれは世間に知られてはいけないおかあさんの「秘密」と思っていたのでしょう。

子育て奮闘中のどこの家庭にもある「反抗する子」「しばく(起こる)母」という親子の真剣なぶつかりあい、子どもがどんな気持ちで大人を客観評価しているか、ときどきちょっと冷静に考えてみてはいかがでしょうか。
ちなみにK子ちゃんもお兄ちゃんも文句なく今も健全に育っています。

この話、「秘密」だったんですが、もうそろそろ時効だと思いますので・・・・。
わたしが年長組を小学校に送りだして、数か月後、一年生担任のベテラン教諭に出会ったとき、「なんとあそこまでよく躾けられましたね。あの年齢でもあそこまでできるんですね。」と感激し褒めてくださいました。わたしは、その次に出てくる言葉を期待して待っていたところ、「あのインパチェンスねぇ・・」と言われ、何のことだかわかりませんでした。

わたしは、園芸が好きで一時とても凝っていました。今から20年余り前、現在ではごくポピュラーになって、どこの公園でも見かけるインパチェンスという花が、初めて市場に出たところ、種を取り寄せて育ててました。まだ、十分に改良されていなかったので、わたしの住んでいる霜の降りるような地域では、冬越しは極めて困難な植物でした。でも、わたしは大事に育てていたので何としても冬を越させようと必死でした。

その花は、保育園の窓辺で夏から秋にかけて赤やピンク、オレンジや白の花を咲かせていました。半日蔭を好む花で、一日中、日にあたったりするとしおれてしまいました。わたしは、冬になっても、暖かくなった9時から一時間日光に当て、葉をぬらさないように水は植木鉢の端からそっとやり、日差しが強くなると窓辺に戻しました。それを毎日繰り返しました。そのうち、年長の子ども達が手伝おうとして、植木鉢を持ちに行ったり、水をやろうとしました。わたしは、それを断ったばかりか、「寄るな、触るな」でした。もともと夏場の花ですから、冬の枝葉はもろくてちょっと触れただけでもポロっと折れてしまいます。

そうして卒園した子ども達の一年生のクラスの窓辺にインパチェンスがあったのです。それは、わたしが分けてあげた苗を一年生の担任の先生が、自宅のある町で大事に冬越ししたものでした。

先生はおっしゃいました。「朝、そーっと持ち出し、日光に一時間当て、葉に水をかけないように植木鉢のはしから水をやり、もとの窓辺に戻すのを、毎日、日課にしてみんなでしています。保育園児でもあそこまでできるんですね。先生、よく教えられましたね。」
わたしは、「寄るな、触るな」で一切触らせませんでしたとも言えず、黙ってうなずくしかありませんでした。やりたくても世話をさせてもらえなかったその花が、小学校の窓辺にあって、子ども達は得意になって見てきたことをしたのでしょう。先生は「なんとまぁ、そこまでできるのか」と感心して下さるし、うれしかったことと思います。

子どもにとって、大人の行動はすべて興味、関心があります。それが楽しそうだったり、珍しいことであったり、大事なことに見えたりすると、「自分もやってみたい」という気持ちになります。また、大変そうだったり、困っているようだと「助けてあげたい」と役に立ちたいという気持ちになります。お手伝いの心は、こうして大人との密接な人間関係の中で生まれてきます。

保育園でも2歳の子どもが、食前のテーブル拭きを、水道で濡らしたビチョビチョのふきんで拭きにきてくれたりして、たぶん家庭だったらおかあさんの悲鳴が上がっているようなことも日常的にあります。そうですよね、しぼってないんですから、服も靴下も濡れてる、ここまで来る間の床はポトポト、テーブルの上の水たまり・・・。食事の前に一仕事増えますよね。次の食事前には、しぼったふきんを渡して、「拭いてね」とお願いしてみましょう。とびきりの笑顔が見られることでしょう。そして「ありがとう」「うれしかった」の一言が、自分が認められたことの証しとして、自信につながっていきます。
コミュニケーションってひとりではできませんよね。でも本当はコミュニケーションは2人ででもできないのです。

ニュースなどで、よくいつも母子二人だけで会話がなかった等、報道されたりしてますよね。また、いつも会社で遅くなるおとうさんが、「よーし、今日はいっぱい話するぞ」って、りきんで、こどもの前に座っても、会話にならなかったってこと、よくありますよね。

そうなんです。コミュニケーションには、実は、もう1つ、第3項と呼ばれるものが必要で、その3者によって、会話が成り立つのです。これを3項関係と呼んでます。そういえば、会話にならなくて困ってしまったおとうさんを助けに入ってくれるのがおかあさんで、おかあさんという第3者のかかわりでこどもと話ができるようになりますよね。いつもおかあさんとこども二人だけだと、話す内容が尽きてしまって、会話がなくなっていくのです。

コミュニケーションには、話題となる第3項が必要で、それは人でもいいし、モノでもいいんですね。

3歳児健診でことばの発達の検査に「おかあさんが指さす方をお子さんは見ますか」という質問があります。どうしてこれがことばの発達に関係しているのでしょうか。お母さんはかならず「あっ、電車だ」とかいいながら、電車の方を見ながら指をさしますね。そしてこどももそちらを見ます。これを同時注視と呼びます。そしてきっとそのあと、ふたりは、顔を見合わせてこういうでしょう。「電車みえたなあ!」、これはお互いが同じものを見たんだと言うことを確認しています。これを相互理解といいます。そのあと「すごく速いなあ、乗ってみたいなあ」なんて、いう会話が生まれるでしょう。二人に同じ気持ちが芽生えたのです。これを情緒の共有といいます。

同じものを見、同じものを見つけたお互いに気づき、お互いに同じ気持ちが流れる・・この素敵な一連の行動を共同注意と呼んでいます。そしてこれがまさにコミュニケーションの本質であり、言葉はその必然から生まれてくるのだから、これが言葉の発達なんだと納得していただけると思います。ここでも、電車という第3項が親子の会話に大きな影響を与えているのがわかりますね。

そうコミュニケーションは、人と人が何かを通してつながることです。そのつなげる何かがなかったら、つなげようとする気持ちがなかったら、コミュニケーションは生まれないのです。もしお母さんが、電車を指さしながら、そっちを見ていなかったらどうでしょう。こどもは嬉しそうに電車を見るでしょうか。見たことを確認しあわないで、そのままにしていたら、こどもはその嬉しい発見を誰と一緒に喜べばいいのでしょうか。

英語等の言語学習がコミュニケーションだと誤解されている部分がありますね。いくら英語のビデオを見ても、ビデオはこちらの言葉を受け止めてはくれません。言葉は学習されてもコミュニケーション力は養われないのです。

そういえば、最近、こどもの暴力、攻撃行動が増えています。この攻撃行動も実は、コミュニケーションの1つです。そしてそれはコミュニケーションを暴力でしか行えないこどもたちのこころの問題でもあるのです。攻撃行動は、親が暴力で人に言うことを聞かせている場面をモデルにしたり(夫婦げんかはこどもの前ですると影響大きいですよ!)、親がこどもに暴力を振るいそれが原因で他のこどもに暴力を振るったりします。自分の感情をコントロールできる学習をする機会もなく、第3項も使えない直接的な表現が暴力です。

そして、そうした暴力の背景に、自分が認められていない、もっと認めて欲しいのにという気持ちが潜んでいることがわかっています。コミュニケーションで一番大切なことは、「あなたがそこにいるってこと、ちゃんとわかってるよ!あなたはそこにいていいんだよ!あなたがそこにいること自体が素敵なことなんだよ!」って伝えることではないでしょうか。これはお互いの自己肯定感を強めるということでもあります。

「○○ちゃん、今、悲しいんだね。こういう気持ちなんだね!」親としてこどもの気持ちをしっかり理解し、こどもが自分の気持ちを理解し受け入れられるように、働きかけることが親子の子コミュニケーションの大切な意味ではないでしょうか。

「うん!」そう満面の笑みでほほえみかけてくるこどもの笑顔が、親にとっては、何者にもまさる宝物であり、生きていくエネルギーになりますものね!

親子、お互いがお互いであるために、自己肯定的でありつづけるために、素敵なコミュニケーションこそがその秘訣だと思います。
わたしは食べ物に関する限りでは、好き嫌いは全くといっていいほどないのですが、どうもひとつだけ苦手なのがプチトマトです。あれってどうしても食べる物に見えないんですよね。あの毒々しい赤、口に入れたときの後に残るしつこい味、いやですね。

わたしが保育士をしていたとき、安くて栄養価のあるプチトマトはよく給食に使われていました。たいていの子どもは喜んで食べていましたが、中には食べぐすらいをする子どももいました。「いいのよ、無理に食べなくても」とわたしは、いたって寛大でした。キュウリが食べられない担任は、キュウリ嫌いの子に寛大でした。

人は誰でもひとつぐらいは、食べて気持ち悪いと思うものがあるのではないでしょうか。ほとんどの場合は、成長するにつれて味覚が変わったり、食べ方に工夫したりして食べられるようになります。子どものころ平気で食べられたものが受け付けなくなったり、子どものころ大嫌いだったネギが鍋物やうどんの薬味に欠かせなくなったりと、人の食生活には変化があるものです。食べ物に関して完璧主義な母親や先生に育てられたら、悪くはないけどちょっぴりしんどいかな。

エピソードをひとつご紹介します。

保育園で、私がトマトが嫌いだということを年長の子ども達に話してありました。でも先生という立場上、「気持ち悪さを隠さず」に食べていました。夏のある日、トマトの大盛り(2切れ!)が出たのです。ふと気がつくと、子ども達全員が気の毒そうな顔をして、わたしをじっと見つめていました。そのとき突然、M君が「先生、見てて」と言うが早いが、ピーマンのてんぷらをパクッと口に入れて、ご飯をかき込み、さらにみそ汁で流し込みました。あっと言う間の出来事で、クラス全員があっけにとられて見ていました。「先生も、こんなにして食べたらいいよ」とM君が言いました。

実は、M君は入園したころ、極端は偏食で特に野菜は全く食べられませんでした。給食のとき、野菜のおかずを見ただけで真っ青になり、ひどいときには食べる前から嘔吐し始めるのでした。おかあさんと相談しながら、例の「一口だけ」作戦や家庭での調理の工夫を重ねて、一年ほどかかってほぼ食べられるようになっていたのですが、ピーマンだけはダメでした。わたしは「大きくなって、食べられるようになったらいいね。今は食べられなくてもいいよ。」とピーマンは免除していました。

それからM君はピーマンを食べられるようになったかって? 話はそんなにうまくいきません。M君は「気持ちの悪いものを食べなくちゃならない」辛さを一番よく知っていたので、わたしに同情して決死の覚悟で秘伝の技を教えてくれただけなのですから。野菜を食べられるようになったと喜んでいたおかあさんや先生の影で、彼は数々の技術を体得していたわけです。

さて、このM君の行動を見ていたクラスの子ども達が次から次へと話し出しました。「わたしはにんじんは小さくして噛まんと飲み込む」「ぼくはコンニャクをわざと机の下に落とした」「ぼくはしいたけを妹のお皿に入れといたことある」・・こういうことも、ああいうこともあって、子どもなりに乗り越えてきた食生活の歴史があるのです。

食べ物の好き嫌いは嫌いなのではなく、その子どもの味覚、嗅覚、視覚にとって「気持ち悪い」と感じられるものなのですから、親としてはどうしても食べさせたいのであれば、当然それを「気持ちいい」と感じられるものにする工夫が求められます。

昔、おふくろの味とよく言いました。同じ煮物でも各家庭で味が違うのは、家族の好みに合わせて、母親が調理方法を工夫してきたからです。年齢を重ねるごとに、その味が懐かしくなるのは、料理を作る母親の心や姿を思い出すからでしょうね。高級レストランのカレーと手作りのカレー、どちらがおいしい?・・・・おいしいってなんだ?

おいしい料理の並んだ食卓を家族で囲めば、楽しい食事が始まるでしょう。子どもが大人になったとき、「お母さんの肉じゃが食べたいな」「これが、うちの味だ」なんて言ってくれる日のことを想定して、料理を楽しんでみませんか。
子育て教室ですから、難しい話かなって思われたかもしれませんが、そんなことはありません。学ぶということは本来とても楽しく簡単なことなのです。それがいつの間にかたいそう難しげなもののように思われ、敬遠したくなっていくのは、こどもが大人へと発達・成長していく中でそのようなすり替わりが起こっているからなのです。今日は、「おけいこ」のお話しをそうした学びの真実から見つめ直してみようと思うのです。

赤ちゃんがこの世に生まれて来てから、たくさんのことを学んでいきますね!学びなさいって言わなくても、ものをつかんでみたり、投げてみたり、ひっくりかえしてみたり、好奇心旺盛そのもの。あれが学びの本来の姿なのです。学びに必要なものは、好奇心とモデルです。「あれっ何だろう」という気持ちがあって、「あっ、パパのまねしてみよう」と適切なモデルがあるときに学びはスムーズに起こります。赤ちゃんは生後72時間くらいたっただけで、お母さんが舌を出すと真似をして舌を出すという共鳴動作という行動をします。こうして将来の学びのためにウォーミングアップしているんですよ!そう言えば、いつのまにか、こどもに自分の変な癖や言い回しを真似されていたことないですか?これがりっぱな学びなのです。

こうした学びのために学びの環境を整備してあげることはとっても大切ですが、親がついつい一生懸命になってしまう「おけいこ」はこの学びの条件に合致するでしょうか。こどもの好きなことを学ばせてあげるという場合や適切なモデルがあってのおけいこなら、こどもも楽しく学べるでしょう。お母さんがピアノを弾き、それがモデルになって、弾きたいという思いを叶えてあげるおけいこの場合ですね。でも、お母さんは弾けないけど、あなたはしないといけないよというおけいこや、ピアノも英語も・・と次々に学ばせることは、こうしたこどもの好奇心に基づく学びとは言えませんよね。

実際、こうした早くからのおけいこがこどもの心に傷をもたらす例もたくさんあるのです。お母さんはこどもは喜んでおけいこしてるとおっしゃるのだけれど、実はこどもは、お母さんに逆らえずに、しんどいのに無理しておけいこさせられているという場合です。そして、早くから何かを習得させることは、他の発達や学びに悪い影響を与えることもあるのです。あることを選ぶということは、他のものを捨てるということです。あれもこれも学ぼうとするこどもは、本当はそれが学びたいという意欲からではなく、お母さんに褒められたい、見捨てられたくないというただ1つの思いから来ていることが多いのです。だって、私たちの好奇心だって特定のものにしか感じないのが普通ですものね!

そして、私たちがこどものこれを学びなさい、おけいこしなさいというようにさせる学習を意図学習といい、知らない間に学んでいる学習を偶発学習といいますが、その人の人生を形取っていく大切な学びは偶発学習によって起こることが多いのです。「知らない間にこどもがこんなことができていた!」という発見を必ず親はしてますよね。それが証拠です。おけいこという形をとらなくても、いろいろな経験がこどもの知性・情操を育てていることに気づくことが大切ではないでしょうか。

コノハズクさんから、遊びのすばらしさについてのお話しがありました。遊びは気晴らしとか、学びの隙間のように軽く見られていることもあり、遊ぶことを禁止したりする親もいるのですが、本当は、遊びの方が学びより高尚、高次の精神活動なのです。こどもはたとえば積木を床に落としたら音がすることを知ると、繰り返しその行動をしてそれを確か
て満足します。これが学びです。しかし、そのうち、それに飽きて、新しいことを求めて落とし方を変えて床にぶつかる音が違うことに気づいて狂喜乱舞します。これが遊びなのです。遊びの方が学びを元にした応用であって、この工夫ができることは知的にも高い証拠なのです。

考えてみると今の遊びはみなお仕着せで、本来の遊びの創造性を発揮できるものが少ないわようです。鬼ごっこという遊び1つとっても、鬼と逃げる子という役割行動、鬼にはどう見えてるかを判断しての逃げという視点意識、タッチされても鬼にならないこどもがいては面白くありませんからルールを守る大切さ、タッチされても鬼にならなくていい安全地帯等を作っていく創造性や人間関係への配慮等等、遊びという文脈のなかには、実に多くの学びが埋め込まれていて、知らない間に偶発学習できてるんですよね。学びに大切な条件は、自分の課題が明確になる確かな文脈、流れが意識できるということなのです。

ひだまりさんがおっしゃっていました。「子育ては、社会の中で何よりも大切な仕事ですから決して一人ですることではない、多くの手助けをもらい、いろんな人とかかわり合って支え合うことが大切」だと。学びも一緒なんです。ともすれば、ひとりの、個人の力をつけていくことだけが学びと思いがちで、おけいこにがんばってしまいますが、本当は自分でできることはたかが知れています。むしろいろいろなできる友だちを持って、そうした分散的な関係の中で学びを作っていく、関係を作っていくことが、学びの真価ではないでしょうか。

こどもに習わせるおけいこに悩むよりも、こどもさんがいろんな遊びの中で、人とつながる中で、見つけていった自分にとってたった1つの学びを大切に支援してあげてください。
わたしが保育士であった時のことです。ある日の午後、年長組の課題として計画していた紙粘土の制作を始めようと遊んでいた子どもたちに声をかけました。子どもたちは、この制作を楽しみにしていたので次々に席につき、用意された材料をこねだしました。牛乳ビンに粘土をつけて花瓶をつくることになっていました。

A子ちゃんとKくんがまだ外にいました。実はわたしは声をかけた時に、A子ちゃんが来て「あ〜あ、今、Kくんとレタスごっこしていたのに。あのね、レタスがやっと冷蔵庫から逃げ出して、今から北極の白クマのところに行くんだから行かせて」と一生懸命、頼むのでした。「そう、じゃぁ、いってらっしゃい。待ってるわね。」とわたしはレタスたちに手を振って見送りました。ふたりは手で円形をつくるような仕草で転がっていくように園庭へ出ていきました。

このレタスについて思い当たることがありました。そのころ、毎朝の読み聞かせの時に「エルマーの冒険」という長編の物語を読んでいたのですが、その日にレタスの出てくる場面があったのです。A子ちゃんは、この話が大好きで前日の欠席のおともだちに、前回のお話の部分をそれはそれは正確にしてあげていました。だから、今日、彼女がレタスになりきっていてもなんの不思議もありませんでした。

さて、みんなが制作を終わろうとしているころに、A子ちゃんとKくんが戻って来ました。A子ちゃんはみんなの作りかけの作品を見て、「わたしも作りたい」と言いました。降園の時間が近かったので、「お迎えの時間が遅くなってもよければいいよ」と提案しました。A子ちゃんは遅くなっても作りたいと言ったので、A子ちゃんのおばあさんに連絡して、いつもよりお迎えの時間を遅らせてもらいました。彼女は、ひとり黙々と作り続けました。牛乳ビンに張り付けられた粘土は、レタスの葉のようなひだのあるパーツが幾重にもつけられていました。

A子ちゃんのお母さんは小学校の先生だったのですが、持ち帰った色付けされた作品を見て、聞いてこられました。「ほんとにA子が考えて、ひとりで作ったのですか」「形があんまり、独創的で・・・。小学生でもあんなのなかなかできません」

わたしは、そのとき、「レタスごっこ」の話をしましたが、A子ちゃんのあのときの精神の高揚をうまく説明できませんでした。でも、おかあさんは納得してたいへん喜んでくれました。

「レタスごっこをいっぱいしたし、楽しかった。」「私も粘土で作りたい」
子どもの想像力や意欲は、十分に満たされた心から生まれてくるものです。

ずいぶん前に本で読んだことがあるのですが、東北のある小学校で大雪が降った日、図画の授業を始めようとしていたところ、子どもたちが「ソリ遊びがしたい」と言い出したそうです。
先生が許可して、子どもたちは大はしゃぎで、その年いちばんの大雪を楽しみ、やがて入ってきて次々に絵を描き出しました。そのときの子どもたちの絵が素晴らしい作品として、その年の各地の美術研究会で高い評価を得ました。会場で「どんな導入をされたのですか、どんな言葉を子どもたちにかけられたのですか」と質問が出たとき、その先生は「わたしは、ストーブにあたって、今日は寒か、今日は寒か、と言っていただけです」と答えられたそうです。

もし、先生が「今は図画の時間だ、ソリ遊びは休み時間にしなさい」と言っていたら、あの素晴らしい作品は絶対に出来なかったのです。子どもたちの気持ちをしっかりと受け止めた先生の心そのものが、子どもたちの楽しかったことを絵に描きたいという意欲への導入になったのです。私達も時々、いえ、ひんぱんに「あとで」「今はダメ」「はやくして」などと、つい子どもの意欲をそいでしまうことがあります。
子どもの心を豊かに満たすものは、遊びの中から生まれてくるものだということを、大人は決して忘れてはいけないのです。

子どもの遊びはままごと、積み木遊び、砂遊びの形の決まったものだけではありません。ひとつの石ころ、一本の木の枝からだって遊びは生まれてきます。また、大人の目から見ると、それは突然始まったり、終わったりするようにも見えます。他の子の遊んでいるのや工事現場をボォーっと見ているときだって、子どもの心は遊んでいるのです。

子どもは本来、遊びを作り出す名人なのです。そこから、知恵や創造力・想像力や、人間関係、そして何よりも体力がついてきます。子どもの遊びを見ていると、身体のすべての部分が機能している様子が分かります。子どもが何かに熱中して遊んでいるときの目や口、首、指、足・・じっとしていますか?

現在、遊びの少なくなった子どもたちの体力不足が心配されていますが、その面からも遊びの大切さを訴えていきたいものです。
こんにちは。
昨日、久々に龍神村のおいしいパン屋さんで、自家製クリーム入りのコッペパンを買ってきました。往復の山あいのドライブは、色づき始めた木々がとてもきれいで癒されました。


今日から、子どもの森子育て教室を始めます。
子育て教室では、毎週1回、新しい話題を提供していきます。
1回目の今日は、子育てにとても大切だと私が感じていることです。

※子どもを育てるって・・・
・毎日がほんとに大変、こんなに大変だなんて思わなかった。
・ついつい叱ってしまい、自分が良い母じゃないと感じることが多い。そう感じるのはとても辛い。でも、どうすれば叱らないでいられるかわからない。
・わからないことが多くて困っている。夫に相談しても夫もわからないし、実家は遠くて母も仕事をしているから遠慮してしまう。誰に聞いたらいいのか、不安だらけでどんどん自信をなくしている。
・こんなにストレスがたまるものとは思わなかった。子どものことで、夫や家族、周りにもとてもストレスを感じるようになった。1時間で良いから一人になりたい。
・次々にいろいろなことが起きて大変だけど、それだけに自分も少しずつ育っている気がする。
・不安だらけで、もういやって思ったこともあったけど、いろんな人に出会って助けてもらうことがあり、これからも助けてもらっていいのかなあって思うようになった。そう思うようになってからずいぶん楽になった。
・社会からどんどん離れてゆく気がする。会社で働いていた自分が遠い世界のことのよう。
・どうして子育てがこんなに大変なことになってしまったのかしらと思うニュースが多い。自分たちの時代はもう少し楽に子育てをしていた気がする。今はそれがとても難しい様子。娘夫婦の子育てを見ていても時々不安を感じ、心配になる。

これは子どもの森で出会った子育て中のおかあさんや、まわりの方たちの言葉の一部です。どうでしょう、共感する言葉がありますか?


子育ては、社会の中で何よりも大切な仕事です。
大切な仕事だから、楽しいと感じることばかりではありません。誰もが時にはとてもつらくしんどいと感じることがあると思います。特に初めての子どもや、子どもに課題(問題)のある時など、些細な事にも動揺し、不安でいっぱいになりがちです。またそんな時ほど、知らず知らず自分で何とかしなくてはいけないと思い、少しの手助けを求めたり、誰かに相談したり、自分を大切にする(休息や楽しみ)ことを忘れていることがあります。すぐに解決できそうにないことでも、伝えることで、わからないことは教わり、困ったときは助けてもらいます。子どもを大切にする気持ちと同じく、子どもを育てる自分を大切にすることも忘れてはいけないことなんです。


子育ては、社会の中で何よりも大切な仕事ですから。
決して一人ですることではありません。
多くの手助けをもらい、いろんな人とかかわり合って支え合うことが大切です。
子どものため、自分のために、人とのかかわりに少しでも積極的であってください。
本に書いてあることや、インターネット等の情報に頼りすぎるのも良くないです。
身近に相談できる人を必ず見つけましょう。親であっても、親戚であっても、仲間であっても、先輩であっても、近所のおばあちゃんであっても、専門家であっても、地域の支援者であってもかまいません。気軽に何でも相談できる人のいることが大切です。


子育ては、社会の中で何よりも大切な仕事ですから。
大切な責任があります。
大切な責任を果たすには、自分らしさを大切にし、子どもの力を信じることだと思います。
『完璧な親なんていない』というタイトルの、子育てプログラムやテキストがあります。
初めてこの言葉を知った時、魔法が解けたように心が軽くなりました。
『完璧な親なんていない』ほっとして前向きになれる、素敵な言葉です。
この言葉も、どうぞ忘れないでください。



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