子育てコラム

子どもの遊び

2007.11.9

わたしが保育士であった時のことです。ある日の午後、年長組の課題として計画していた紙粘土の制作を始めようと遊んでいた子どもたちに声をかけました。子どもたちは、この制作を楽しみにしていたので次々に席につき、用意された材料をこねだしました。牛乳ビンに粘土をつけて花瓶をつくることになっていました。

A子ちゃんとKくんがまだ外にいました。実はわたしは声をかけた時に、A子ちゃんが来て「あ~あ、今、Kくんとレタスごっこしていたのに。あのね、レタスがやっと冷蔵庫から逃げ出して、今から北極の白クマのところに行くんだから行かせて」と一生懸命、頼むのでした。「そう、じゃぁ、いってらっしゃい。待ってるわね。」とわたしはレタスたちに手を振って見送りました。ふたりは手で円形をつくるような仕草で転がっていくように園庭へ出ていきました。

このレタスについて思い当たることがありました。そのころ、毎朝の読み聞かせの時に「エルマーの冒険」という長編の物語を読んでいたのですが、その日にレタスの出てくる場面があったのです。A子ちゃんは、この話が大好きで前日の欠席のおともだちに、前回のお話の部分をそれはそれは正確にしてあげていました。だから、今日、彼女がレタスになりきっていてもなんの不思議もありませんでした。

さて、みんなが制作を終わろうとしているころに、A子ちゃんとKくんが戻って来ました。A子ちゃんはみんなの作りかけの作品を見て、「わたしも作りたい」と言いました。降園の時間が近かったので、「お迎えの時間が遅くなってもよければいいよ」と提案しました。A子ちゃんは遅くなっても作りたいと言ったので、A子ちゃんのおばあさんに連絡して、いつもよりお迎えの時間を遅らせてもらいました。彼女は、ひとり黙々と作り続けました。牛乳ビンに張り付けられた粘土は、レタスの葉のようなひだのあるパーツが幾重にもつけられていました。

A子ちゃんのお母さんは小学校の先生だったのですが、持ち帰った色付けされた作品を見て、聞いてこられました。「ほんとにA子が考えて、ひとりで作ったのですか」「形があんまり、独創的で・・・。小学生でもあんなのなかなかできません」

わたしは、そのとき、「レタスごっこ」の話をしましたが、A子ちゃんのあのときの精神の高揚をうまく説明できませんでした。でも、おかあさんは納得してたいへん喜んでくれました。

「レタスごっこをいっぱいしたし、楽しかった。」「私も粘土で作りたい」
子どもの想像力や意欲は、十分に満たされた心から生まれてくるものです。

ずいぶん前に本で読んだことがあるのですが、東北のある小学校で大雪が降った日、図画の授業を始めようとしていたところ、子どもたちが「ソリ遊びがしたい」と言い出したそうです。
先生が許可して、子どもたちは大はしゃぎで、その年いちばんの大雪を楽しみ、やがて入ってきて次々に絵を描き出しました。そのときの子どもたちの絵が素晴らしい作品として、その年の各地の美術研究会で高い評価を得ました。会場で「どんな導入をされたのですか、どんな言葉を子どもたちにかけられたのですか」と質問が出たとき、その先生は「わたしは、ストーブにあたって、今日は寒か、今日は寒か、と言っていただけです」と答えられたそうです。

もし、先生が「今は図画の時間だ、ソリ遊びは休み時間にしなさい」と言っていたら、あの素晴らしい作品は絶対に出来なかったのです。子どもたちの気持ちをしっかりと受け止めた先生の心そのものが、子どもたちの楽しかったことを絵に描きたいという意欲への導入になったのです。私達も時々、いえ、ひんぱんに「あとで」「今はダメ」「はやくして」などと、つい子どもの意欲をそいでしまうことがあります。
子どもの心を豊かに満たすものは、遊びの中から生まれてくるものだということを、大人は決して忘れてはいけないのです。

子どもの遊びはままごと、積み木遊び、砂遊びの形の決まったものだけではありません。ひとつの石ころ、一本の木の枝からだって遊びは生まれてきます。また、大人の目から見ると、それは突然始まったり、終わったりするようにも見えます。他の子の遊んでいるのや工事現場をボォーっと見ているときだって、子どもの心は遊んでいるのです。

子どもは本来、遊びを作り出す名人なのです。そこから、知恵や創造力・想像力や、人間関係、そして何よりも体力がついてきます。子どもの遊びを見ていると、身体のすべての部分が機能している様子が分かります。子どもが何かに熱中して遊んでいるときの目や口、首、指、足・・じっとしていますか?

現在、遊びの少なくなった子どもたちの体力不足が心配されていますが、その面からも遊びの大切さを訴えていきたいものです。